「パウリーニョ・ダ・ヴィオラ
〜 サンバ王国の継承者」

美しいハーモニーと歌詞にエレガンスが備わった究極のサンバ。彼を後継者に指名したサンバの巨匠、カルトーラの予見どおり、パウリーニョ・ダ・ヴィオラはサンバの頂点に到達した。
完全なるサンバの創作者であるパウリーニョは、作詞作曲、歌、ギター&カヴァキーニョ演奏、さらには得意の木工で楽器まで制作してしまう。

1942年、リオ・デ・ジャネイロのボタフォゴ生まれ。父はショーロ・グループ、エポカ・ヂ・オウロのギター奏者で今でも現役。幼少の頃から自宅にピシンギーニャやジャコー・ド・バンドリンといった"ブラジル音楽の伝説たち"が出入りしていたという。
成人する頃には独学でギターを弾き、作曲をし、63年にはリオで最も伝統のあるエスコーラ・ヂ・サンバ(サンバ・チーム)の一つポルテーラの一員となる。

63年のある日、かのカルトーラ夫妻のレストラン兼ライブハウス、Zicartolaに連れていかれ、その時代を代表するサンビスタであったゼー・ケッチなどと演奏。カルトーラから生まれて初めての演奏ギャラを手渡され、サンビスタたちからは芸名、パウリーニョ・ダ・ヴィオラ(ギターの小さなパウロ)を授かっている。

これを機にパウリーニョはプロとしての活動を開始。64年からエルトン・メデイロス、ゼー・ケッチ、ネルソン・サルジェント、クレメンチーナ・ヂ・ジェズスのほか、当時のナンバーワン女性シンガー、エリゼッチ・カルドーゾなどとレコーディングをする。

66年には自身が作曲したサンバ・エンヘード(カーニバルのテーマ・ソング)「Memorias de Um Sargento de Milicias」でパレードしたポルテーラがカーニバルで優勝している。彼がエスコーラに捧げた曲としては、恩師カルトーラが創始者のひとりであるマンゲイラの「Sei La Mangueira」も名曲だ。

70年にはポルテーラのベテラン・サンビスタたちを集めた歴史的なレコーディングを自らプロデュースし、これがVelha Guarda da Portela結成の発端となった。

名実ともに"サンバ界の貴公子"と認められるようになったパウリーニョは、68年のエウトン・メデイロスとの共作『Samba na Madrugada』を皮切りに、83年の『Prisma Luminoso』まで、ほぼ毎年ソロ・アルバムをリリースするようになる。

この期間に録音した自他の曲はいずれも珠玉のサンバであるが、あえて代表曲をあげるなら「Rosa de Ouro」、「Sinal Fechado」、「 Foi Um Rio que Passou na Minha Vida Foi Um Rio que Passou na Minha Vida Foi Um Rio que Passou na Minha Vida 」、「Danca da Solidao」(後にマリーザ・モンチも録音)、「Argumento」「Sofrer」、「Coracao Leviano」(クララ・ヌーネスの歌でも有名)、「Miudinho」、「Onde a Dor Nao Tem Razao」、「Rumo dos Ventos」、「Mas Quem Disse que Eu Te Esqueco」などがある。

以降はオリジナル曲を歌うスタジオ録音作品は『Eu Canto Samba』(88)と『Bebadosamba』(96)の二枚だけとなり、ライブを中心に気ままに活動しながら現在に至る。

2003年には私生活と演奏風景を織り交ぜた音楽ドキュメンタリー映画『Meu Tempo e Hoje』(輸入DVDあり)がブラジルで上映され、これの音源もCDリリースされる。

2004年にはカルトーラの半生を描いた演劇『Obrigado Cartola』のタイトル曲を手掛け、劇の音楽担当も務めた。同年、不整脈で一時入院するも無事退院。05年には愛するポルテーラの一員としてカーニバル・パレードにも元気に参加している。

05年に入ってライブでも新曲を披露するようになり、久々のオリジナル・アルバムの発表が期待されている。

来日公演は80年代に一度行っており、日本を含め世界中に根強いファンを抱える。ブラジル音楽史上類のない素晴らしいキャリアを持つといわれるパウリーニョ・ダ・ヴィオラ。彼を育んだサンバという音楽にいま一度、感謝したい。

♪代表曲
NERVOS DE ACO NERVOS DE ACO NERVOS DE ACO
FOI UM RIO QUE PASSOU EM MINHA VIDA FOI UM RIO QUE PASSOU EM MINHA VIDA FOI UM RIO QUE PASSOU EM MINHA VIDA
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