「エリス・ヘジーナ
〜 ブラジルの歌声」

女性歌手エリス・ヘジーナはブラジル音楽界に燦然と輝いた光。強烈な地声に繊細な感情表現を織り交ぜるとき、人々は瞬時に彼女の虜になってしまう。エリスほど強烈に愛され、ときには非難された歌手は他にいない。
 
1945年ブラジル南部のリオグランデドスル州に生れる。11歳から地元のラジオ局で歌い始める。61年、16歳で初アルバムを録音。64年リオデジャネイロに活動の場を移す。
 
翌65年、エドゥ・ロボ作曲の「アハスタォン」を歌い全国的に知られるようになる。同年からTV番組「O Fino da Bossa」のプレゼンテーターを務め、ここでボサノバ以降のブラジル音楽を担う若手アーティストたち、ジルベルト・ジルミルトン・ナシメント等をブラウン管に初登場させると、以降、イヴァン・リンス、ジョアン・ボスコ、アルヂール・ブランキ、ベルキオール、チン・マイアなど今では超一流となった当時の新人アーティストの曲を最初に歌い、世の中に紹介する存在となった。
 
67年にボサノヴァの名作曲家ホナウド・ボスコリと結婚(72年に離婚)。68年からフランスを中心にヨーロッパで歌い好評を得る。しかし絶頂期のイメージを当時の軍事政権のPR活動に利用されてしまい、一部の国民から激しい非難を受ける。これがエリスのキャリアに影を落とす出来事となった。
 
72年には若手音楽家セーザル・カマルゴ・マリアーノのアレンジによるアルバム『エリス』をリリース。このアルバムの成功をきっかけに、エリスはキャリアの転換期を迎える。それからはマリアーノの才能ある音楽的サポートに、演出要素を存分に加えたライブ・ショーを制作し再び大反響を起こす。各ショーの名前で発表されたアルバム『Falso Brilhante』(76)、『Transversal do Tempo』(78)、『Saudade do Brasil』(80)はエリスの作品群のなかでも特に評価が高い。マリアーノとは73年に再婚している。
 
79年には最初で最後となる来日公演を行っている。80年にはエリス生前最後のアルバム『Elis』(EMI)がリリースされる。81年にマリアーノと離婚。1982年1月19日サンパウロの自宅で、37歳の若さで突然死する。死因は薬物による急性中毒。この悲報にブラジル全土が泣いた。
 
早熟の天才、早すぎる死。エリスの人生は日本の美空ひばりやアメリカのジュディ・ガーランドと重なる。彼女の死から22年経ったいまでも未発表テイクが毎年のように掘り出され続けている。
 
4歳で母エリスを無くした歌手マリア・ヒタの言葉が印象的だ。「ある意味、私は恵まれている。聴きたいときに母の声が聴けるから。歌には彼女のすべてが込められている」
 
♪代表曲
LADEIRA DA PREGUICA LADEIRA DA PREGUICA LADEIRA DA PREGUICA
CASA FORTE CASA FORTE CASA FORTE
COMO NOSSOS PAIS COMO NOSSOS PAIS COMO NOSSOS PAIS
MARIA, MARIA MARIA, MARIA MARIA, MARIA
FASCINACAO FASCINACAO FASCINACAO
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