「カズーザ
〜 80年代の悲運のヒーロー」

80年代のリオに燦然と輝いたカズーザは時代を代表したシンガーで、パーソナリティだった。ハスキーな声で激しく、楽しく、ときには寂しく歌い、またずば抜けた詩的センスの持ち主であった。

1958年生まれの生粋のイパネマっ子。大手レコード会社、Som Livreの社長を務めていた父を持つカズーザは、若い頃からアーティスト志向で写真家、俳優などにチャレンジするうちに舞台上で歌うことに喜びを見出す。81年、友人でシンガーのレオ・ジャイミに紹介され、若きロック・バンド、バラォン・ヴェルメーリョのボーカルになる。

バラォンの持つリズム&ブルース系のサウンドにカズーザの元気なポップさが加わり、リオ特有のミックスチャーが完成、注目を集めていく。82年のファースト・アルバム『Barao Vermelho』の「Todo Amor que Houver Nessa Vida」をカエターノ・ヴェローゾがライブで演奏するようになると、一躍、話題のバンドとなっていった。

翌年にはセカンド・アルバム『Barao Vermelho 2』をリリース。のちにネイ・マトグロッソも録音することとなる「Pro Dia Nascer Feliz」がヒットを飛ばす。3rdアルバム『Maior Abandonado』(84)ではタイトル曲や「Por Que a Gente e Assim?」のほか、同名映画の主題歌となった「Bete Balanco」などがヒット。バンドがスターダムに名を連ねるとともに、カズーザの歌と詞にも注目が集まるようになる。

しかし、新しいことに貪欲に挑戦したいカズーザとバンドの方向性にすれ違いが生じ、85年の初代ロック・イン・リオに出演した後、カズーザはバンドを脱退、ソロ活動に専念する。同年にはソロアルバム『Exagerado』をリリースし、タイトル曲と「Codinome Beija Flor」(ルイス・メロヂーアがカバー)が大ヒット。セカンド・ソロアルバム『So Se For a Dois』(87)でも「O Nosso Amor a Gente Inventa」などが人気を博した。

しかし、バイセクシャルであったカズーザはエイズに侵され始めており、87年頃から幾度の体調不良を訴えることとなる。アメリカで治療を受けながら書いた曲でアルバム『Ideologia』(88)を録音。タイトル曲の「Ideologia」、ボサノヴァの「 Faz parte do meu show Faz parte do meu show Faz parte do meu show」、ガル・コスタの歌でも知られる反体制ソングの「 Brasil Brasil Brasil」やジルベルト・ジルとの共作で同名映画の主題歌の「Um Trem Para as Estrelas」など素晴らしい曲が収められたこのアルバムは50万枚のセールスを記録し、80年代のブラジル音楽史に残る秀作となっている。同じくこの年、幼なじみのベベウ・ジルベルトと共作した「Preciso Dizer que Te Amo」をマリナ・リマに提供した。

病に体を蝕まれていく中、カズーザはアルバム・ツアーを敢行。ライブ・アルバム『Cazuza ao Vivo - O Tempo Nao Para』(89)を残している。ここでは新曲の「O Tempo Nao Para」と「Vida Louca Vida」(ロバォンと詩人ベルナルド・ヴィリェナ共作)も収録された。

89年にはエイズ感染者であることを公表。最後の力を振り絞り、ブラジルの社会問題を痛烈に批判したアルバム『Burguesia』(89)を残すと、翌年1990年7月、32歳でその才能を惜しまれつつ死去した。

その翌年、未収録音源を集めた『Cazuza Por Ai』(91)がリリースされると、その後も数々のトリビュート・アルバムが出され、2004年にはカズーザの生涯を描いた映画『Cazuza - O Tempo Nao Para』が上映されたばかりだ。

短い生涯を一生懸命に駆け抜けたカズーザは、永遠にブラジル人の胸中に生き続けている。

♪代表曲
CODINOME BEIJA-FLOR CODINOME BEIJA-FLOR CODINOME BEIJA-FLOR
FAZ PARTE DO MEU SHOW FAZ PARTE DO MEU SHOW FAZ PARTE DO MEU SHOW
BRASIL BRASIL BRASIL
MALANDRAGEM MALANDRAGEM MALANDRAGEM
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